ヒトの歴史と微生物

1982年春に1年目の医師としてカトリック医療施設に赴任しました.施設内には多くのシスターがいて,産婦人科が主たる診療科の一つで年間1200例の分娩がありました.シスターの何人かは助産婦(助産師ではなく)でした.庭には畑があってシスターが畑仕事をしていました.小児科医としてお産の立ち合いをすると,先ほどまで畑仕事をしていたシスターが土で皮膚のしわが黒くなった掌(もちろん手洗いはしていたと思いますが…)で素手で新生児を取り上げていました.「うーん,分娩は医療ではないのだな」というのが感想でした.ヒトは原人まで遡ると180万年前から,哺乳類としては3億年前から分娩があったはずです.今のような清潔な環境でのお産は最近のことです(帝王切開の歴史はせいぜい500年ほど前からです).お産は,母親から新生児が腸内細菌などの常在菌を正しく受け取り,その後の病原菌感染防御などを成立させるための大切なイベントだったはずです.

 

ヒトと微生物の共生を考えてみましょう.動物が酸素を使ってエネルギーを生み出せるのは、細胞の中に存在するミトコンドリアのおかげです。ミトコンドリアは20億年前に動物が外部から取り込んだ細菌ということになっています.取り込んだというと一方的な意図があるように思えますが,動物にもミトコンドリアにもメリットがありました.動物はミトコンドリアのおかげで好気的な(酸素を使った)エネルギー代謝で非常に効率的に動くことができます.ミトコンドリア活性酸素で壊れないようにヒトの細胞の核内に遺伝子を移動させて生き残ることができます.まさに共生です.

 

【ヒトの常在菌】

外界と接しないところが本当の体内です.外界と接する体外にはそれぞれ常在菌がいて,病原菌の体内への侵入を守ってくれます.

  • 皮膚の常在菌
    皮膚には表皮ブドウ球菌という常在菌がいます.お産の時もそうですが,お母さんとのスキンシップで赤ちゃんに移行していきます.赤ちゃんが何らかの理由で抗生剤を投与されると,おむつ部のカンジダ皮膚炎をおこしますが常在菌がやっつけられたためです.
  • 腸内の常在菌
    腸内常在菌の代表格が大腸菌です.母親の外陰部に大腸菌がいてお産の時に赤ちゃんに移行します.抗生剤を投与されると下痢したり出血性腸炎(クレブシエラ菌によるものが多い)を起こしたりするのは,腸内細菌叢が傷んでしまうからです.
  • 口腔内の常在菌
    口腔内にはα溶血性連鎖球菌やナイセリア属などがあります.赤ちゃんの鵞口瘡(口腔内カンジダ感染症)の多くは抗生剤投与後に起こります.
  • 膣内の常在菌
    デーデルライン桿菌は、健康な女性の膣に存在する常在菌です。デーデルライン桿菌は特定の菌につけられた名称ではなく細菌叢でLactobacillus(乳酸菌)属で腟内を酸性に保つ事で、雑菌の侵入を防いで健全な状態を保っています.ストレスなどの場合もありますが抗生剤を投与されると膣カンジダ症を起こしたりします.

 

【ヒトの常在ウイルス】

生態系を構成する一員としてウイルスも微生物の仲間だと考えられています.良く知られている常在ウイルスはヘルペス属です.単純ヘルペスウイルス,水痘・帯状疱疹ウイルス,伝染性単核球症を引き起こすEBウイルス,似た症状を起こすサイトメガロウイルス突発性発疹症を引き起こすHHV6,HHV7ウイルスなどです.これらのウイルスは初感染が成立して持続感染状態となりますが,ストレス時や免疫低下時に悪さをして,移植後患者などで問題になります.しかし,寄生しているだけとは思えず,共生状態なのではないかと想像されます.ヒトにとってこれらのウイルスがどのように役に立っているのかは現在は不明ですが,きっと将来証明されるだろうと思っています.

 

【話題提供】

ここからは,医師らしくなく,エビデンスに基づかず,思うがままに書くので,物語として楽しんでいただければ幸いです.

  1. 虫歯の原因「ミュータンス菌」
    「生まれたばかりの赤ちゃんは虫歯菌を持っていない」ということですが,体内の無菌状態から出てくるわけですから,基本細菌はほとんどいないはずです.虫歯菌は、どのようにして感染するかについて,①愛情表現のためのキス,②熱い食べ物を息で冷ましてからあげる,③固い食べ物を口で噛んで柔らかくしてからあげる,④箸やスプーンなどを共有する,などが悪さをするとされていて,避けましょうというキャンペーンがあります.しかし,親から子への常在菌の移行は重要です.虫歯菌だけ避けるということはできません.ハグしたりキスしたり,食器や食べ物を共有することは大切な愛情表現で,個人的には虫歯の予防よりずっとずっと大切なことだと思います.
    乳幼児期にミュータンス菌が感染しやすいとしたら,そのころの父母や祖父母の口腔ケアをしっかりすればよいと思います.COVID-19は5類になったわけですから,赤ちゃんとはマスクを外して声をかけながら笑顔で接してほしいと思うし,それこそ乳幼児期しか築けない愛着関係があり人格形成に非常に重要だと思いますよ.
  2. ビタミンK欠乏による頭蓋内出血(前ブログにも掲載)
    私が医師になったころは,新生児のビタミンK欠乏は新生児メレナといって生後2-4日頃に吐血とタール便を認めるものが中心でした.その後,生後3週間~2ヶ月で突然の頭蓋内出血を引き起こすことが問題になり,今は生後2か月までに3回ほどビタミンKが投与されます.もちろん重要なことなのできちんと投与するべきです.
    ところで,哺乳類にはビタミンKを合成する酵素がありません.天然には2つのビタミンKが存在し,植物の葉緑体に含まれるフィロキノンと,細菌が産生するメナキノンがあり,大腸菌などによるメナキノンの産生は哺乳類にとって重要なビタミンK供給源です.緑葉野菜の摂取と,腸内細菌の大腸菌からの供給があり,進化の過程で哺乳類が自らビタミンKを合成する能力を獲得する必要がなかったということです.
    ビタミンK欠乏による頭蓋内出血は本当に昔からあったのでしょうか? 生命にかかわるような病態は,長い歴史の中で進化にかかわります.新生児メレナは基本的に重大な病気ではなかったので,ビタミンKを合成する酵素は必要なかったわけです.昔から頭蓋内出血が起こっているならば,進化の過程でビタミンK合成が可能にならなかったでしょうか?
    恐らく近年まで,ほとんどの出生時に産道で大腸菌をはじめとした細菌が母親から伝搬していたのだろうと思われます.近年の帝王切開などはその伝搬を妨げただろうし、産道の過度な消毒も問題かもしれません.母体への抗生剤投与も影響しているかもしれません.環境が過度に清潔であることもあるかもしれません.
  3. 母体のサイトメガロウイルス初感染によるTORCH症候群
    TORCH症候群とは、赤ちゃんがお母さんのお腹にいるとき、特定の病原体(トキソプラズマ,風疹ウイルス,サイトメガロウイルス、単純ヘルペスウイルスなど)によって、赤ちゃんに重篤な障害がもたらされる状態です.脳や心臓、眼など諸臓器に障害が見られます.以前はほとんどの妊産婦がサイトメガロウイルスに既感染だったのですが,おそらく過度の清潔によるのか妊産婦の抗体保有率が減り,妊娠中に初感染をおこすとTORCH症候群を起こす可能性が上がっていることから,2人目以降の妊娠中にすでに生まれているお子さんとのキスや頬ずりを避けようというキャンペーンがあります.子どもの唾液が付いていそうなもの(洗っていない食器、食べ・飲み残し等)は口に触れないようにし、唾液がついている可能性のある子どもの頬や唇へのキスは避けようということです.
    もちろんTORCH症候群は重大な疾患ですから避けなくてはいけませんが,お兄ちゃんやお姉ちゃんとの愛着はどうなるのでしょうか? 非常に残念な発想です.子どもたちを過度に清潔な環境で育ててはいけないということだと思います.
  4. HHV6感染症と二相性急性脳症
    二相性脳症は,けいれん重積型二相性脳症(ASED)と呼ばれ,いつごろから存在した疾患かわかりませんが2000年以降に知られるようになった脳症です.慢性期に知的障害>運動障害を残す可能性があり,てんかんに移行する例も少なくありません.
    突発性発疹症は,HHV6やHHV7で引き起こされる乳幼児期の発疹性疾患で一般には重症化しません.しかし有熱期にけいれんで発症する二相性脳症を引き起こす可能性があり,二相性脳症の最も多い原因です.HHV6は,母親の口腔内にいて離乳食がはじまったころに食器の共有によって感染するので,以前は生後6か月前後に圧倒的に多かったのですが,今は1歳以降に発症する子も半分以上にあります.
    HHV6がいつから存在したウイルスか知りませんが,きっと大昔から離乳食がはじまったころに感染し,6か月前後の児の免疫状態か母親からの移行抗体の状態かわかりませんが,このころにかかるのが安全だったのではないかと思います.今は食器を共有しないし,安全な時期に感染せずに少し月齢が進んでから感染することが,二相性脳症の原因になっている可能性はないのでしょうか?